ねぷた(弘前・津軽)の話   川村岩山

 弘前ねぷた絵師の第一人者として重要無形民俗文化財指定にも尽力した故長谷川達温師に、小学5年生で弟子入して修行した「川村岩山」が、達温師の思い出話と長谷川流ねぷた絵技術等の伝承を主な目的として構成したサイトです。

プロフィール
川村岩山(かわむら がんざん、本名 伸明)。1955年青森県弘前市出身、青森県立弘前高校・日本大学法学部法律学科卒。
1966年 故長谷川達温師門下となり、ねぷた絵をてがける。
2009、2010、2019 年にねぷた色紙個展開催。
様々な観点から、ねぷた絵の歴史や様式、素材についてブログにまとめている。2018年から弘前大学や国文学研究資料館等の「津軽デジタル風土記」プロジェクトに参加、新作の見送り絵を描き下ろす。

アーカイブ達温ねぷた


このブログ256話から「長谷川達温先生33回忌遺作展」の展示内容に沿って紹介を兼ねて話を進めてきましたが、本番の遺作展を来る9月6日から22日迄開催するので、今回でこの話題は一旦終了します。

今回の遺作展は、私が取り仕切る最初で最後の遺作展(先生の50回忌の時に元気だったら別ですが)だと思っているので、かなり広範囲にスタンスをとりました。

しかし、「あすなろ国体ねぷた」や「人形ねぷた」等、組み師の他に先生と共に製作に直接携わった方がいる所謂「共同制作」なるものは、その時の先生のパートナーとのやり取り等は想像が多くなるので意識的に外した他、不確定なことや私がわからない事業は積極的に外したつもりです。

その分、初公開となる絵に加え、現存する墨描きの鏡絵や見送り絵の下絵と、過去のねぷた関連の展示会に無かった絵毎に詳しい解説(キャプション)を可能な限りつけ、写真や新聞記事などの裏付け資料も揃えた展示しているつもりです。

達温先生

水滸伝 一丈青扈三娘の襖絵に取組む在りし日の長谷川達温先生

 

何より、初公開の長谷川達温先生の「ネプタ絵の下絵」を一挙公開展示するので、ねぷたファンのみならずこれから絵師を目指そうとする方や、現在ねぷた絵師として活躍している方にも、語弊があるかもわかりませんが、充分見ごたえがある展示だと思います。

先生のほか、併せて展示するご子息壽一師の見送り絵などの遺作は、今回意識的に少なめにしましたが、来年以降改めて特集を組もうと思っています。

 

これまで紹介した他に、展示を予定しているものを紹介して遺作展の話を終わります。

・三国志 呉 丹陽太守孫翊(そんよく:孫権の弟) 妻 徐氏 

・花和尚奮戦の図  会場ギャラリー森山2階達温先生制作襖絵の下描き

墨書き鏡絵下絵は、

・水滸伝 九紋龍史進奮戦図 3種

・水滸伝 黒旋風李逵奮戦図

・三国志 馬超 奮発して韓遂等を陣中に斬る図

・三国志 祝遊夫人 蜀将張嶷と馬忠を生捕る図

・三国志 趙雲 呉将周善を斬って幼主を救う図 

他にも多数予定しています。

 

なお、私が会場にいる時は、たいがいのことはお答えできると思っているので、質問のある方は遠慮なく声をかけて下さい。
これからねぷた絵師を目指そうとする方は特に歓迎です。

水滸伝 花和尚魯智深

 

今回は、遺作展の話のラス前、水滸伝花和尚の話です。

「何だ、花和尚か」と思うかもわかりませんが、鏡絵でなく見送り絵です。

多分、花和尚の見送り絵といえば、元絵が「水滸伝絵本(北斎水滸伝)」の下の花和尚を想像する方(マニアックな方です)がおいでだとは思いますが、全く違うオリジナルのものです。

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布に彩色したもので、今回遺作展の目玉作品の一つです。

花和尚魯智深(ろちしん)は、水滸伝の登場人物で、梁山泊序列第13位の好漢です。

「花」は刺青のことを指し、全身に刺青があることからあだ名が花和尚(かおしょう)となりました。


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ねぷたで花和尚の刺青を描く時は、竹森節堂先生が桜、達温先生が牡丹と明確に分け、お互い暗黙で決めていたと窺
(うかが)われます。

私も刺青の描き方を教えて頂いたときに、「刺青の花は牡丹にするように」と念をおされていましたが、本来は「海棠(かいどう)の花」の説が有力です。

達温先生はこの刺青をはじめとして、髪飾り、着物の模様に牡丹の花を多用しました。

それは、「ねぷたであること、津軽家の花であること、花にボリュームがあることが選定した理由」でした(達温先生談)

花和尚魯智深の最後は、水滸伝の中で唯一穏やかな死の設定で、杭州六和寺で自身の死期を悟り、一室に籠って悟りを開き入寂したことになっています。

花和尚は、水滸伝の中で、九紋龍史進・一丈青扈三娘などと共に最も多くねぷたの主役としてよく登場しますが、花和尚の立ち姿(全身像)を描いたのは極めて珍しく、見送り絵か何かの大型灯籠用に複数枚制作したものと思われます。

なお、同じ大きさで「張飛」の半身像があるので、同時展示の予定です。

これらは、和紙ではなく一時期流行した布に描かれているのも大きな特徴です。


ねぷた本体の照明は、蝋燭→白熱灯→蛍光灯→第二世代白熱灯→
LEDと変遷しましたが、蛍光灯が一世を風靡した時のパートナーは布でした。

布は描いている時のシワや電気が透けて見えないようにする等気を付けなければならないことが沢山あるなかなかの曲者で、奉書に代わる紙製品の登場が待たれていました。

先生は、大型化したねぷたに対応するため(奉書は継ぎはぎ部分が多く破けやすい)、三菱製紙(確か八戸支店でした)と提携して、破けにくいねぷた紙(ロンテックス)を実用迄3年ほどかけ開発に成功させました。

製紙会社からのコンタクトで開発が進みましたが、最初のロンテックスは、プラスティックのような繊維が多数入り、破れない代わりに色のりが極めて悪いものでした。

現在は厚さなどもチョイスでき、奉書に比べてもそん色ない、ある意味奉書以上のものが市販されています。

継ぎはぎ部分が少ない(裏からロー止めをしなくてもよい等)ぶん、制作工程が少ないので今の絵師は恵まれていると思います。 
  

次回(明後日)は、長谷川達温先生33回忌遺作展の紹介のまとめです。

 

河野対馬守通有

今回は、「弘安の役 志賀島の戦  河野対馬守通有(こうのつしまのかみみちあり) 元将を生捕る図」です。


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この絵は文永・弘安の二度侵略を受けた「元寇」が題材です。

昔の教科書では、元寇といえば突然元の軍船が来襲し、鎌倉御家人がそこそこ戦い、二度とも神風が吹いて日本が大勝利したと書かれている程度で、しっかり教えてもらうことはあまりなかったと記憶しています。


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袖絵に博多湾に吹く神風

 

史実は、属国になるよう迫る「元」に対し、当時の鎌倉幕府が6度の外交交渉等を経て決裂させたうえで、元の来襲経路や上陸地点、その規模、時期等を情報活動で詳しく把握して、土塁や石垣を海岸線に築き、大軍をもって適材適所の防衛戦を展開したもので、しかも台風シーズンであることも作戦に組みこまれていたという歴史家もいるほどで、勝つべくして勝ったものです。

奇跡と神風が好きな旧帝国陸海軍大本営の参謀のせい?でかなり歪曲されましたが、当時の朝鮮半島の情勢は居ながらにして鎌倉に届くようになっていたようです。

鏡絵は1281年(弘安4年)の来襲時に、四国伊予水軍の御家人河野対馬守通有が元兵の石弓(先端に毒がぬられていて厄介な代物だったようです)によって負傷しながらも、博多湾の志賀島で停泊中の元の軍船に斬り込んで元軍将校を生け捕るという手柄を立てた場面(史実)です。

元寇といえば忘れてはいけない教科書でお馴染の御家人がいます。

1274年の文永の役で活躍し、蒙古襲来絵詞(もうこらいしゅうえことば)を描かせた九州肥後の御家人竹崎兵衛尉季長(たけざきひょうえのじょうすえなが)です。

彼は、弘安の役で負傷したこの河野通有を見舞ったという記録が残っています。

展示する下絵は、1983年(昭和58年)小栗山の鏡絵下絵です。

前話の武松の下絵とは異なり、先生の現存する墨描きの鏡絵の下絵では最も大きいものです。

 

ところで、ねぷたの運行に欠かせない前灯籠(町名や運行団体名を記載している)ですが、この直方体の側面の処理は各絵師で異なります。

長谷川先生は、前灯籠の側面に「月に桜」、「月に紅葉」と弘前公園の祭りにちなんだ絵を描いていました。

この2種類の前灯籠側面の絵は、ご子息の壽一師が描いた現物がそのまま残っているので、遺作展に展示することにしました。

普段あまり気にしないところの絵なので、前灯籠の横はほとんどこの組み合せで私が描かせて頂いていました。

その他の前灯籠はほとんど私が担当
(大学の頃)で、会社等のマーク(日産自動車やペプシコーラetc.)は特に専門で担当していました。

余談ですが、竹森節堂先生や阿部義男先生が描いたねぷたと達温先生が描いたねぷたを遠くから見分ける方法がありました。

達温先生の絵は、前灯籠の側面が上記のとおり、開きの牡丹(花びらの色が濃く唐花を描くことが少ない、見送り絵脇の雲の色が黒、つたの枚数が多い、大雲の数はが一つで色は黒等の特徴を持っていました。

先生方の絵を見分ける為のポイントを自分なりに決めて悦に入って見学していました。

私の少年から青年時代のねぷたは、この他に石澤龍峡先生を加えた「ねぷた絵師四天王(竹森節堂先生、石澤龍峡先生、長谷川達温先生、阿部義男先生)」が揃い踏みの時代で、この四天王のねぷたが2台づつでも連続して運行しているのを今の若い絵師が見れば、それぞれが豪華で見ごたえがあるねぷたが続き、多分腰を抜かすと思います(写真と現物の違いは文章に書くことができません)

 

今回は、水滸伝から「武松 酔拳で蒋門神(しょうもんしん)を打つ(投げ捨てる)」という題の鏡絵の話です。

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これは、先生が1973年(昭和48年)東北電力の鏡絵に描いたものです。

この絵は、勿論現物はありませんが、私が撮ったカラー写真と先生の下絵が残っていること等から遺作展に取り上げてみました。

詳しく解説すると、先生の下絵は通常拡大率10倍して鏡絵を描くことに決めていましたが、この下絵は20倍以上に設定しており先生の下絵中最小であること、その下絵も極めてアバウトな鉛筆描きであること、三人の組み絵に仕上げていますが、3人共全身が鏡絵に描かれている極めて珍しい構図であることなどから取り上げました。

以下遺作展の当該キャプション
(説明文)です。

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「施恩(しおん:梁山泊序列85位)の店を奪った蒋門神への報復を頼まれた武松が、酒を飲ませてもらうことを条件に千鳥足で店に向かい蒋門神を打ち倒す場面である。

投げられ逆さになっているのが蒋門神、中央並びに右端の人物は共に武松である。

近年の鏡絵には全身像が描かれることは稀で、かつ隙間ない絵が増えているが、この絵は三人共全身が描かれていて、余白が多いものの斬新な構図である。


師の真骨頂である鉛筆で描いただけの極めて簡単な下絵で、現存している大型ねぷたの下絵の中では最小である。」


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ねぷたの鏡絵部分は上半身の武者等を数人組み合せて描くのが主流ですが、昔は結構全身を描いている鏡絵が存在しました。

先生も昭和30年代から40年代初頭まで結構な頻度で、主人公の全身を鏡絵に描いていました。

登場人物の全身が描かれた鏡絵は、8号の色紙に墨描きした下絵が30数枚残っていますが、今流行りの鏡絵ではないので、今回の遺作展に出品するかはもう少し検討して結論をだします。

鏡絵に全身を描けば、半身を描いた鏡絵に比べるとパーツが半分の大きさになり、迫力不足になり易いので、顔だけのねぷた絵には比べられないほどまともですが、これを竹森節堂先生が中心に変化させてねぷた絵の改革を進めました。

それでも、この東北電力の「武松 酔拳で蒋門神を打つ」は、わき役の蒋門神を遠近法を使って主役より大きく描いて迫力不足になることを回避し、この年の市長賞を獲得しました。

先生は、棟方志功ねぷたの手伝いの時に、棟方のそばで何かをつかみとったのではないかと思っています。

竹森節堂先生とは全く異なり、大雑把な、極めて簡単で小さい下絵から、良く大きなねぷたが描けるものだと思う方が沢山おいでになると思います。現物をご覧下さい。

 

 

今回は、1971年(昭和46年)7月9日から15日に弘前市一番町の旧「角はデパート」6階ホールで開催された達温先生3度めの個展「長谷川達温 ネプタ絵展」の話しです。

先生はこの個展で、ねぷたの鏡絵から一人をピックアップして作品化するという初めてのことに取組んだ19点の額装絵、ねぷたを染め抜いた皿、ねぷた絵を描いた帯2点等を発表しました。

今でこそ沢山のねぷた絵師がこの手法を模倣して当たり前になりましたが、鏡絵の主役たちが一人だけ描き抜かれたねぷた絵といえば、竹森節堂先生の祝融夫人が印刷されたお土産品位で、本格的なものはどこにもなく、これまた当時としては画期的なことでした。

なお、先生の個展に門弟として弟子頭の堀江氏、故斎藤北明さん、入門したての山本達扇さん、私他が畳1枚位の見送り絵を出品させて頂きました。

先生は、この個展で絵を四つ切り位の大きさの額装としましたが、これ以後、さらにねぷた絵を広める為に大判サイズの色紙((24.2㎝×27.2)の下絵の作成に努めました。

私に譲られた大判の色紙下絵(ほとんどが初心者練習用です)だけでも62種類を数えます。

私はこれとは別に、弟子入り後の練習用としてさらに20種類程いただいだので、先生は大変な数を描いていたと思います。

鏡絵や元絵から主役を定め、一人だけ抜き描きするのですから、組み絵と違って人物と人物の重なりが無いソーシャルディスタンスがしっかりとれた絵になるので、細かいところまでキッチリ描くことが求められます。

前にも書きましが、個々の絵師に描くねぷた絵の鎧兜の造り等に統一した考えがないと、絵にまとまりがつかなくなります。

悪い表現ですが、わからなくなったら「房を描いてごまかす」はこの場合あまり通用しません。

最近この鎧兜を描くのに独自性を発揮しすぎてわけがわからなくなった絵を散見しますが、まずは北斎の描いた統一された決まり事を理解することがねぷた絵を描く第一歩でないかなと思います。

 

この個展出品19点の中から呉越軍談の「伍子胥(ごししょ)」と漢楚軍談の「項羽」をとりあげます。

この個展の下絵は、全て鉛筆描きを青いボールペンを使ってなぞる手法で、墨絵の下絵は存在しません。

ただ、どの下絵にも先生の色指定がされており、関羽、祝融夫人、伍子胥、項羽等可能な限り展示する予定です。

今回は、数多い下絵の中から、様々な機会に先生が良く描かれていた「伍子胥」と「項羽」をチョイスして詳しく解説します。


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伍子胥の絵本呉越軍談は、校正が池田東籬
(いけだとうり)、挿絵が柳川重信です。



この絵本呉越軍談の挿絵を描いた柳川重信は北斎の門人で、北斎の長女と結婚し一児を設けましたが後に離婚した経歴の持ち主です。

この絵の元絵は、同本の伍子胥が幼主を抱いて鄭(てい)兵の囲みを破る場面です。

時代は、秦の始皇帝に統一されるまで続いた中国春秋戦国時代で、三国志より700年程前となり、鄭は当時の国の一つです。

「漢楚軍談」や「呉越軍談」は現在でも使われている故事成語や四字熟語の宝庫で、読み物としても興味深いものがあります。

伍子胥には、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)(復讐を成功するために苦労に耐える:日清戦争後、独仏露の三国干渉に反発する我が国の国民的スローガンとして有名)や「死者に鞭(むち)打つ」(父兄を殺した楚の平王の墓をあばきその屍を300回鞭打って復讐をとげた)などの故事がある他、「孫子の兵法」を作者孫武と共に呉王に献上したことでも知られています。


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絵本漢楚軍談の訳は、鷯鷦貞高(ささきさだたか;為永春水のこと)、挿絵は葛飾為一卍老人(葛飾北斎のこと)です。

元絵:項羽の隣の女性は、四面楚歌の中項羽の最期、垓下(がいか)の歌「虞()や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん」で有名な愛人の虞美人です。

 

項羽は、秦末期の楚の武将で始皇帝の死後、造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時期“西楚の覇王”と号しました。

その後、天下を「劉邦」と争い、楚漢戦争を通して劉邦の漢軍を圧倒し続けましたが、敵対者は残らず殺し尽くすというあまりの苛烈さが、楚から民心を遠ざける結果を招きました。

次第に諸侯もその足下を離れ、秦の滅亡時に天下を覆わんばかりだったその軍容は徐々に数を減らし、ついには配下の楚軍の将兵にまで離反され、追いつめられた末に自ら首を刎ねて自害しました。

その遺骸は劉邦によって黄金千枚と一万戸の封地という懸賞金がかけられていて、項羽が自害するや漢兵がむらがって五分され、遺骸の破片を持ち帰った兵はそれぞれ褒章を受け列侯されたとなっています。

 

 

さて、先生が新しいことに取組んだ1971年(昭和46年)の日本は、GHQから解放されて19年、#1東京オリンピックから7年経過しましたが、まだまだ発展途上の国で、弘前市内の道路もやっと全体的に舗装されて来た頃でした。

ねぷたの世界もまだ「喧嘩ねぷた」の経験者が各町内に長老として勢力をもっていて、津軽弁で表現すると「あれまね。これまね。」(まね=だめ)で新しいいことは全てダメというとてもとても保守的な時代でした。

ただ、前の年に竹森節堂先生という大御所が亡くなり、ねぷたも大きな転換期を迎えていたことはまぎれもない事実でした。

前2回の個展とこの個展での先生の取組みは、市民に大受けし、その後鏡絵から一人を抜き描きするという手法は主流となり現在に至っています。

今回の遺作展の記録写真は、ほとんどがモノクロ写真です。
昭和50年頃というと、写真フイルムは、サクラカラーやコダックがやっと潤沢廉価
(現像料金が高かった)に出始めた時代(フジカラーはまだマイナーで3番手)でした。

昭和46年の私の弘前市立第一中学校の卒業アルバムはオール白黒写真、3年後の高校卒業アルバムですら見開きがカラー写真のみだったので、この個展の記録も当然白黒写真です。

ちなみに、1983年(昭和58年)創刊の各団体のねぷたを紹介する「ねぷたガイド」もそれから数年間は白黒でした。

 

まだまだ遺作展の話題は沢山ありますが、あと4回位にまとめて9月6日からの本番を迎えたいと思います。

長谷川達温先生遺作展の話を続けています。今回は、玉巵(ぎょくし)の話です。

玉巵とは本来、玉のように美しい盃をいうようですが、ねぷた絵の世界では有名な仙女「太真王夫人(だいしんおうふじん)」の幼名と言ったほうがわかり易いかと思います。

これは、本名は玉巵なのですが、成長して竜王の「太真王」の夫人になったため太真王夫人と呼ばれているからです。

ねぷたの世界では、よく太真夫人と省略して呼ぶ若い人が多いのですが、そもそもみんな道教の神様であり、神様の名前を省略して呼ぶのは間違いになります。

また、太真王夫人は、中国の道教の説話集で70人の仙人の伝記が記載されている「列仙伝」にその名があります。

太真王夫人を見送り絵にした場合は、夫が「龍」の元締めの神様であることや玉巵と呼ばれていた幼少の時から多くの龍と友達で、白龍に乗ってあちこち遊びに行っていた逸話(中国神話)から、長谷川流のねぷた絵の袖絵は龍とだいたい相場が決まっていました。

 

さて、王巵は中国神話最強仙女の「西王母(さいおうぼ)」の末娘です。

ねぷたに良く登場する九天玄女(きゅうてんげんにょ)は、この王巵の教育係として西王母のそばに使われている、西王母お気に入りの仙女です。


中国神話によれば、九天玄女は王巵を厳しくしつけため、白竜に乗って時々逃げ出したと書いています。

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このことを金井紫雲は自身の「東洋画題綜覧」で、

「太真王夫人、王母少女、王巵也、毎弾一絃琴、即百禽飛集、時乗白竜周遊四海。」と表しています。
 ※一弦琴:いちげんきん
(1本弦の琴)

訳:太真王夫人は、西王母の末娘の王巵である。彼女が一弦琴を弾くと多くの鳥が集まった。また時には白竜に乗り四海を周遊した。


テレホンカード


この絵は、見送り絵に「太真王夫人」、袖絵に幼い頃の「玉巵」を配した達温師の傑作の一つで、このねぷたは当時流行した
NTTの「テレホンカード」(鏡絵は黒旋風李逵奮戦の図の2枚1組)に採用されました。

見送り絵と袖絵の組合せが極めて自然で、何事も良く調べて取組んでいた先生らしさが窺われる作品となっています。

玉巵の元絵は、北斎晩年の弟子「葛飾為斎(いさい)」が描いた「玉巵弾琴図(ぎょくしだんきんず)」で、長野県信濃町の有形文化財に指定されている同町雲龍寺蔵の屏風絵(びょうぶえ)です。

遺作展では、現物が極めて少ない上のテレホンカードを勿論展示します。

 

今回は、1967年(昭和42年)1月12日から16日にかけて、弘前市一番町の旧田中屋のホールで開催された「長谷川達温 ネプタ金彩見送色紙展」の話しです。

達温先生は、個展を3回、ねぷた絵展(ローを付けた通常のねぷた見送り絵等)を数回開いています。

個展は、それぞれテーマをもって開催したもので、今回の遺作展では1回目と3回目の個展を集中してとりあげます。

先生最初の個展は、この金彩見送色紙展(見送でありません)で、三国志や水滸伝をはじめ、江戸期の読本にまでその画材を求め、見送り絵35種類を長判色紙(27.2㎝×48.4)に描き揃えたものと「大版色紙(24.2㎝×27.2)の生首絵」「ねぷた行燈」「通常のねぷた見送りサイズで楽女」「屏風(衝立)殷の妲己」を展示して、「達温ねぷた」を決定づけたものでした。

なんといってもこの個展は、見送り絵を家の中でも飾れるサイズで、しかも初めて35種類も一堂に揃えたことで市民の目を奪い、寒中ながら連日大盛況でした。

かくいう私も、この個展を2回見学に行き、その後弟子入りをお願いすることになったきっかけとなった先生の個展でした。

とにかく何種類も見送り絵があって、しかも小さいサイズ(27.2㎝×48.4㎝)に統一されていて、当たり前ですがきれいに描かれていて、とにかく驚いてビックリしてしまったことが、私の記憶にまだ鮮明に残っています。

当時はまだSNSどころかカラー写真すら満足になく、記録が少ない時代でしたから、何十種類も一度に見れるということは11歳の私にはかなり刺激が強いもので、今こうしてブログを書いているのもこの個展があったからです。

今回の遺作展では、当時の見送り絵現物こそないものの、現存している墨書きの下描き(一部彩色済)から10種類程度と殷の妲己の衝立現物を展示します。

また、先生の母校「青森県立弘前高校100周年」の記念手拭を先生が描きましたが、今回原画の補修が終わったので、手拭現物(同校鏡ケ丘同窓会から借用)と共に初展示します。

今回は、個展の展示品から「笠屋三勝」と「楽女」をとりあげます。


以前この二つはこのブログでとりあげましたが、先生の遺作展で外すことができない絵なので重複することがあればお許しください。

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笠屋三勝

この絵は、達温先生が最初にねぷた見送り絵に採用し、以後晩年まで何度も描き続けたものです。

ねぷた絵の題材は、その多くが三国志や水滸伝ですが、先生はこの他にも江戸期の読本に着目し、暇を見つけては東京神田神保町の古本屋街を訪れ沢山の本を買い求めていました。

このため先生の蔵書も豊富で、三国志や水滸伝は当たり前で、三勝が書かれている「三七全伝何柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)」など多数の江戸期読本や当時の浮世絵等を図書館並みに揃えていた他、相当な読書量も誇っておいででした。

先生は、主に題材の主力を葛飾派の絵に置き、それが出版当時流行したもの、今風に換言すると当時のベストセラー作品をチョイスしていたようです。

これによって、ねぷた絵題材の範囲が飛躍的に広がった先生の功績は極めて大きいものがあると私は思っています。


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楽女

昨年私が取り組んだ、弘前大学と国文学研究資料館との共同プロジェクト「津軽デジタル風土記」の研究の元にもなったもので、今では当時先生の考えておられたことが良くわかるようになりました。

もう一方の「楽女」は、絵本通俗三国志に描かれているものをベースに竹森節堂先生が見送り絵にしたものが最初だと思います。

達温先生は、この楽女の絵を何度も何度も描いていますが、少しづつ改良した物をその都度発表して最後は「達温=楽女」と言われるほど自分の絵になされました。

前にも書きましたが、我々弟子たちは先生が存命中は、この楽女を描くのを遠慮していましたし、竹森先生も達温先生が師事された後この絵は、達温先生に任され描かれたという記憶がありません。

両先生にどういう取り決めのようなものがあったかわかりませんが、「竹森節堂ねぷた絵草稿」の本に竹森先生の楽女の下絵が掲載されていますが、これはミスチョイスでしょう。


今回の遺作展では、1976年(昭和51年)8月29日()に私(当時21歳)が模写した楽女の下絵に、達温先生から直接色指定して頂いたものが残っているので、希望する方にA3サイズにコピーしたものを来場記念としてプレゼントします。

当時の先生の楽女の下絵がベースなので、晩年のものに比べると少し硬い印象がありますが、「達温の弟子」がどのように指導を受けていたか、ねぷた絵を描く方には少し参考になると思います。

現物を見ると、とても細かいのに気が付くと思いますが、我々弟子が言う「先生は繊細だ」ということが少し理解できるのではないでしょうか。

あの日から今年で40年以上経過し私もいい歳になったので、今回先生の遺作展なので思い切って差し上げることにしました。

また、達温先生のねぷた絵写真(私撮影)をベースに「A4版クリアファイル」を制作したので、会場で販売します。数に限りがあるので売り切れの際はご容赦下さい。


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時々脱線していますが、概ね達温先生の33回忌遺作展のコース順に話を進めています。

今回はねぷたと仏画です。


現在のねぷたは誰でも
,どこの団体でも自由にねぷたに仏画を取り入れています。

単におどろおどろしさを出したいがための仏画らしいものは、いかがなものかと思いますが、何の脈絡もなく仏画が描かれているねぷたも、仏画と武者絵・美人画を混同しているような感じがして、個人的にはまったくもって好きでありません。

当時達温先生は、「仏画は仏様なので格が全く違うもの、仏教の教会が運行団体なので粗末にならない」と曹洞宗の僧侶としてきっちり話されたことが常に頭にあるのでこんな発言になりました。

 

今でこそ仏画を組み入れたねぷたに驚くこともなくなりましたが、1972年(昭和47年)に達温先生が立正佼成会弘前教会のねぷたの見送り絵に、岩木山の裾のの津軽平野に文殊菩薩(見送り絵)が降り立つように描いた時は大変でした。

私はまだ中学生でしたが、ねぷたに仏画が登場したと東奥日報の記事になるほど世の中全体が驚き、大騒ぎになりました。

この前年にも普賢菩薩の化身といわれる「見立江口の君」など2・3仏画らしいものを描いていましたが、津軽平野に文殊菩薩が降臨するという仏画仏画した見送り絵は初めて(以後同教会のねぷた見送り絵は仏画に固定されました)のことでした。

見立て江口の君
見立て江口の君


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津軽平野に文殊菩薩降臨


さらにこの年は、キリスト教系の東奥義塾高校の開校100年にあたり、記念ねぷたも先生の手になりました。

鏡絵は花和尚勇戦図、下の写真見送り袖絵は島原の乱、見送り絵は花魁の踏み絵でした。

踏み絵

仏画でビックリしている最中に、ねぷたに「耶蘇会(イエスズ会)=キリスト教」まで登場したのですからこれはもう大変です。当時の新聞切り抜きはしっかり展示します。

どちらもねぷたにとって初めてことでしたが、どちらかというと私は仏画の見送り絵に驚きました。

何しろ自分の先生が描いた見送り絵なので、かなり強烈に記憶に残っています。

どちらも一番町で見ましたが、周りの見物客から「ワァー」「オォー」「仏様だ」「耶蘇会の絵だ」と声があがったのを今でも覚えています。

翌々年先生は、同教会のねぷたに聖観世音菩薩を見送り絵に、袖絵に龍を阿吽(あうん)に配置し、最近の仏画のねぷた見送りに限りなく近い絵を描きました。

「仏画」とねぷた袖絵の定番ともいえる「龍」とのバランスなどをかなり気にして、本番前に下描きを描き、組合せの可非を検討確認していました。
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達温先生は、袖絵の下描きを描くことはほとんどありませんでした。

そもそも描きながら清書していく天才タイプなので、下絵は軽く鉛筆描きということがほとんどでした。

今回の遺作展には、この現存する先生の見送り絵と袖絵の組合せの下描き2枚を展示します。どちらも墨書きの細かい下描きで、先生の下絵としては大変珍しいものです。

また先生は、ねぷたに仏画を導入することをかなり以前から考えていたようで、文殊菩薩は自身の見送り絵展に発表している他、聖観音菩薩も色使いを変えて2枚描く等、綿密に検討した跡が窺えます。

なお、本遺作展には、この時描いたもう1枚の聖観音菩薩(写真の見送り絵とは袈裟の色違い)を展示します。  

 

今回も長谷川達温先生33回忌遺作展の展示内容の紹介で、日本武尊(やまとたけるのみこと)の続きです。

この日本武尊の組み絵は、2人絵の鏡絵として達温師が好んで描いた最もポピュラーな絵の一つです。

少し見にくいのですが、先生が鉛筆で描いたねぷたの下絵が残っているので掲載します。


日本武尊&川上タケル

 

これは、小碓命(おうすのみこと)と名乗っていたヤマトタケルが女装し、熊襲(くまそ)の首長のクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ちとった図です。

古事記によれば、この時の強さをたたえて「日本武尊」の名を弟タケルが献上したといいます。

 

元絵は、幕末から明治前期に活躍した浮世絵師「月岡芳年(つきおかよしとし)」の明治16年~18年に刊行された32種類からなる大判錦絵「芳年武者无類(よしとしむしゃぶるい)」の中の1枚です。  

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 日本武尊、川上梟帥(たける)を誅す図  元絵:芳年武者无類(むしゃぶるい)  画:月岡芳年

 

歌川国芳を師とした芳年は、明治期多数の門人を抱え、近代日本画の巨匠「鏑木清方」の子供の頃から目をかけていて、鏑木も良く芳年宅に遊びにいっていたのは有名な話です。

ちなみに、芳年の弟子に水野年方、その水野の弟子に鏑木清方、池田輝方らがいて、鏑木清方の弟子に伊東深水や女性日本画家の柿内青葉などが続いています。

なお、達温先生の作品は、現在補修のため表具師さんのところに入院しているので写真掲載はありません。

遺作展では、補修が終わった先生の墨書きの作品を展示します。

墨描きで彩色はされていませんが、個人的には今回遺作展で最も好きな絵、目玉作品の一つと思っているので、ぜひ遺作展におでかけになりご確認下さい。

前話の続きで、マニアックな話しです。


ねぷたの世界では、呉越軍談の「伍子胥
(ごししょ)・豫譲(よじょう)・項羽・秦の始皇帝」や三国志の「劉備・関羽・張飛・曹操・孫権」、水滸伝の「宋江」達が同時代の人物のように描かれていますが、それぞれ活躍した時代は全く異なります。


各人の全盛期で比べると、伍子胥は紀元前525年頃、「知己」の語源となった豫譲は紀元前450年頃、項羽と始皇帝は紀元前220年頃、劉備は西暦200年頃、水滸伝の宋江に至っては西暦1120年頃とかなり年代が異なりますが、いずれも実在の人物です。

 

ちなみに、伍子胥と宋江の年数の開きは、現在と卑弥呼の時代程の開きがあります。


中国正史である三国志の魏書
(魏は曹操の魏です)「魏誌倭人伝(ぎしわじんでん)」の記述で、曹操の孫「曹叡(そうえい)」から邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が与えられた「親魏倭王」は、現在から1780年程前の西暦238年なので、これを目安に前述の人物たちの時代を考えるとわかり易いのではないかと思います。

また、宋書「倭国伝」には、倭の五王(讃、珍、済、興、武)の記録があります。


なかでも478年に倭の武王が宋に書を送り官位を賜った記録が残っています。


1968年出土した埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣
(国宝)により、武王はワカタケル大王(おおきみ)と確認されています。

ワカタケル大王は、我々中高年向けに書くと第21代の「雄略天皇」であることもわかっています。


ちなみに、日本史の試験で武王は、雄略天皇と回答しないで、必ず「ワカタケル大王」と書くよう予備校の高校日本史の映像授業
(YouTube)で強く教えています。この解釈が私には全く意味がわかりません。


ワカタケル大王が、その時もらった官位は、「使持節(軍隊指揮権)都督
(州の軍事民政権掌握)倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事(軍事行政支配権)、安東大将軍(軍隊階級・現在の大将)、倭国王(倭国所有権)」と朝鮮半島全域の軍事行政支配権を認められる等結構高い位でした。

当時は、周辺の王に対し「都督◯◯諸軍事・△△将軍」の称号を与え、近隣諸国・諸民族懐柔策に用いていたようです。

使持節は聞きなれませんが、これがないと階級があっても軍隊を直接指揮することはできませんでした。

将軍職の軍隊階級は格の高い順に、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍の中央軍司令4名、征・鎮・平・安に東西南北をつけた呼称(征東将軍や安北将軍など)の各方面軍司令16名、前後左右の各将軍(前将軍や左将軍)の4名、計24名が常設の将軍でした。

なお給料は、大将軍から鎮北将軍まで12名が1万石以上の給料、平東将軍から安北将軍、前将軍から右将軍まで12名が1万石以下2千石以上の給料でした。

ワカタケル大王は、安東将軍の格上の安東大将軍に叙せられましたが、24よりない常設の将軍ポストの1つだったので、結構高い位と表現しました。

またこの他に、○○将軍(百勝将軍、鎮護将軍等)などがありますがこれは、上記常設将軍のポストに空きがない場合に叙せられました。これらは将軍であるものの常設将軍ではない為、雑号将軍と呼ばれ、空きが出るとそれに叙され昇進しました。

諸葛孔明と魏延(ぎえん)の官位が残っているので比べてみると、魏に対し倭国は決して隷属的関係ではなかったことがわかります。

孔明は、「使持節(軍隊指揮権)大将軍(軍隊階級・現在の元帥)丞相開府(丞相)録尚書事(行政位・現在の総理大臣)司隷校尉(行政位・首都警察長官)益州牧(領官・益州行政権)武郷侯(爵位)諸葛亮孔明」

魏延は、「使持節(軍隊指揮権)前軍師(行政位・丞相府軍師)征西大将軍(軍隊階級・現在の元帥)領涼州刺史(涼州行政権)南鄭侯(爵位)魏延」です。

話が変な方にいきましたが、私はこの仕組みを理解することで、劉備や曹操が亡くなった後の三国志の登場人物(次々登場するのでわからなくなる)の格を推し量っています。

三国志の将軍たちも日本の大名や侍と同じ、官位や爵位、禄高に一喜一憂し、モチベーションの維持につなげていたようです。いずこも同じです。


ところで、伍子胥の絵も水滸伝の絵もねぷた絵の中では、着るものから武具に至る迄、時間の経過を無視して、同じような物を身につけた武者絵としているのが気になったことはないでしょうか。


1974年に始皇帝の「兵馬俑
(へいばよう)」が発見され、当時の武具がねぷた絵のそれと似ても似つかないものであることが改めて確認されました。


兵馬俑は、「古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑
(死者といっしょに埋葬した人形)のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には始皇帝の兵馬俑を指す。(ウィキペディア)」です。


弘前市の中三デパートでも兵馬俑の現物を1~2体持ってきて「兵馬俑展」が開催されました。

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見学後に達温師は「ねぷた武者の鎧兜は江戸期の北斎一派の創作物であることがハッキリした。詳細はまだまだ不明で研究の余地が残っている。川村さんも一度よく調べればいい。」と述べていました。

それから、調べて数十年経ちましたが、未だよくわかりません。ダメ弟子です。

 

観点を変えてさらに一歩踏み込んだ意見を述べると、この現実とねぷた絵の矛盾が中国をはじめとする各国で受け入れられず、ねぷた絵の国際化を妨げている一因でもあると思います。

いくら三国志の本場中国にねぷたを持ちこんでも上手くいかず、メジャーになれないのはこの辺の研究不足からきているものと考えています。将来的にも研究が必要な分野だと思います。

この点については、青森ねぶたは題材の選び方(日本の材料などで真偽が単純にわかる)が成功してまさしく、インターナショナルな祭りになりました。

これについては、私と兄弟弟子の故佐藤大節さんも、銀座で個展を開いても、どこで開いても中国人は批判的にとらえてどうにもならないと、同じようなことを話しておいででした。

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