前話は三国志と通俗三国志の違いなど、少し「おたく」的な話でしたが、今回も、ねぷた絵に見る三国志や名場面等を年代順に整理した話、人物の話しです。

 

笑ってしまうかもしれませんが、私がねぷたを描き始めた頃は、「三国志=劉備・関羽-張飛の三人志」のことだと思っていました。

今回は登場人物と地名が難解とは思いますが、若い人でもわかり易いようにまとめたつもりです。

 

前も軽くこのブログに書きましたが、まだ覚えている長谷川達温先生との話の内容です。


「ねぷた描きは、最低限三国志と水滸伝位はよく読んでおかないとだめだ。川村さんは三国志を読みましたか?」「はい。」「誰が書いた三国志ですか?」「吉川栄治の三国志・水滸伝です。」「それならいい。」


確か中学2年の時に、正伝寺本堂横の広間で鏡絵のロー描きを見学していた時の先生との会話だったと記憶しています。


今考えると、先生は機会あるごとに私の知識程度(ねぷた絵の題材等の知識)を確認されていたと思います。


知っていることは簡単に、わからない話は年齢に応じた内容で教えて頂きました。


先生も「わからないことは調べて描く、調べてもわからなかったら描かない。」というスタンスを徹底しておいででした。

ねぷたを描く上でこのスタンスは、極めて重要なことだと思います。

 

ねぷた絵の世界では神様(これには誰も異存・異論はないはずです)と謂われる「竹森節堂先生」は、三国志の中から様々な場面をチョイスして鏡絵にしています。


竹森先生も三国志(正確には通俗三国志)を読み込んでいたからこそ、様々な場面を登場人物を違わず絵にすることができたのだと思います。


竹森先生がチョイスした代表的な戦いの場面は、もう2年前になりますが、弘前市立博物館編集発行の「竹森節堂ねぷた絵草稿」で確認することができます。


それでも、通俗三国志は正しい歴史とフィクションが混在している点に留意しなければ、魏呉蜀時代を正しく理解することはできません。


竹森先生の本から書き抜きすると、

①虎牢関(ころうかん)の戦い (次回詳述します。)


②関羽の五関の危難突破   (次回詳述します。)


③長坂坡
(ちょうはんは)の戦い (領民を連れて移動する劉備は二人の夫人と長男を見失うが、趙雲の大活躍で
 子を取り戻すことができて有名になりました。
)


④葭萌関(かほうかん)の戦い (葭萌関は蜀から西安に行く交通の要衝です。馬超と張飛が数日戦い引き分け、
 その後馬超が降参して劉備配下となった(西暦214年)戦いの場所です。
 調べると、ここは今でも中国の観光スポットのようです。)


⑤潼関(どうかん)の戦い (潼関は西暦211年、馬超等の関中軍閥の連合軍が曹操と戦った場所です。
 馬超は曹操を今一歩まで追い詰めたとされていますが、史実は全くの逆でした。)


⑥巴郡(はぐん:現在の重慶市と四川省東部にまたがる地域)西暦213年頃張飛と太守の厳顔(げんがん:後に
 張飛配下となる)が戦いました。

以上となります。


この他、超有名武将が戦った絵がありますが、人物の話しは後に譲ります。

 


ねぷた絵の世界である三国志は、前回も書いていますが、勧善懲悪、判官びいき、弱い蜀に偏った人物描写等など何をとっても日本人好みの物語です。

 

次回は三国志の流れ(歴史)です。

 

今回の絵は長谷川壽一和尚が初めて弘前ねぷた祭りに描いた、東奥義塾100周年記念ねぷた運行時の前ねぷたです。

「張飛巴郡に厳顔を降す」でこのブログ2度目の登場です。張飛に持ち上げられているのが厳顔です。
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