前回から三国志の年表を追いかけています。


前回書いた期間の劉備は。曹操と戦うことは戦うのですが、いつも痛い目に合ってあちこちに逃げ回っていました。

弱い方を応援する判官びいきの日本では、やはり「蜀の劉備一家?」がもてはやされるのが良くわかるような年表で、ちょうど西暦200年まで書き進みました。

今回はその続きですが、いよいよ諸葛孔明が登場して、少し面白くなってきます。

 

→ 西暦201年、汝南で劉備が曹操に大敗し、劉表を頼る。翌年に袁紹が病没。

→ 西歴207年、劉表(りゅうひょう)のもとにいた劉備は、三顧の礼により軍師として諸葛孔明(天下三分の計)を 迎える。

→ 西暦208年、長坂坡(ちょうはんは)の戦い

 曹操により劉備軍は総崩れとなった。

 趙雲が奮戦し、逃げ遅れた劉備の嫡男阿斗(あと:後の劉禅)を抱きかかえ劉備のもとに連れ帰った。

 劉表死去。

 ねぷた絵の世界では「趙雲幼主を救う」という鏡絵(下部参照)で有名。


→ 西暦208年、赤壁の戦い

 孔明の説得によって呉の孫権と劉備が手を組み、曹操に大勝した。映画の「レッドクリフ」で有名です。

 敗走する曹操を関羽が義によって見逃してしまう。

 超有名な戦いですが、団体戦だったためかねぷたにはこの絵がありません。


→ 西暦214年、劉備が蜀を鎮圧し、馬超が降伏して配下に加わる。


 葭萌関(かほうかん)の戦い

 三国志演義では、で劉備が仲裁するまで、張飛と馬超が何日も決闘したことになっています。


→ 西暦219年、劉備は曹操と激戦を繰り広げながら漢中を平定したが、呉の孫権により関羽、関平親子が殺される。

→ 西暦220年、曹操が亡くなり、息子の曹丕(そうひ)が魏王となる。曹丕は、後漢の献帝の禅譲で帝位(魏の文帝)につく。


→ 西暦221年、劉備が前漢の皇統を継いで蜀を建国する。張飛が暗殺される。


→ 西暦222年、劉備は、関羽が殺されたことに報復するため、呉に攻め込むが陸遜(りくそん)に大敗する。


→ 西暦223年、劉備が退却先の白帝城で死去。

 

このあたりまでがねぷたの世界によく登場する三国志の世界です。


簡単に言えば、曹操と劉備、関羽、張飛が亡くなるあたりで三国志もほとんど終わりに近づいたという、私個人的にはそんな感じです。


後は、日本の応仁の乱以降の下剋上の世界によく似ています。

 

→ 西暦227年、孔明の「水師の表」。


→ 西暦234年、五丈原の戦い

 諸葛孔明が司馬懿(しばい:仲達のこと。魏で功績多くクーデターで実権を握り、西晋の礎を築いた)と対陣中に病没(死せる孔明、生ける仲達を走らす)。


→ 西暦239年、倭の邪馬台国女王の卑弥呼来献して親魏倭王の勅書印綬を受ける。


→ 西暦251年、司馬懿病死。


→ 西暦263年魏に蜀帝劉禅降伏して蜀が滅亡する。呉は280年に滅亡する。


→ 西暦265年司馬炎(武帝、司馬懿の孫)が晋を建国。


 

 実際のねぷたの鏡絵に取りあげられたり、名のある武将がそれらしく登場するのは、呂布の辺りから劉備が蜀を平定する西暦190年から同214年の24・5年の間のことなのがわかります。


 勿論まだまだ絵となった場面、絵になる場面がありますが、劉備が亡くなった後の話は登場人物が一気に若返ってしまい、私の整理がつかないのでこの辺にしておきます。


 次回から、登場人物について述べていきます。できれば、登場人物のねぷた絵も紹介します。

 

 今回の絵は、正伝寺先代の長谷川壽一和尚が描いた昭和55年黒石市緑ヶ丘のねぷたです。

題名は、上述した「趙雲幼主を救う」です。
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