弘前ねぷた絵   川村岩山

 弘前ねぷた絵師の第一人者として重要無形民俗文化財指定にも尽力した故長谷川達温師に、小学5年生で弟子入した「川村岩山」が、長谷川流ねぷた絵技術等の伝承を主な目的として構成したサイトです。

プロフィール
川村岩山(かわむら がんざん、本名 伸明)。1955年生まれ、青森県立弘前高校・日本大学法学部法律学科卒。
1966年 故長谷川達温師門下となり、ねぷた絵をてがける。
現在、様々な観点から、ねぷた絵の歴史や様式、素材についてブログにまとめている。

唐花とは、大陸起源の花文で、蓮(はす)または牡丹(ぼたん)を図案化したもの。奈良時代以来みられ、平安時代には和様化され単純なものになった。 ...

今回は昭和49年の長谷川達温先生のねぷた絵です. 前回は「三役そろい踏み」で、故石澤龍峡先生と故阿部義男先生のねぷたに登場していただきました。 私の中学生までは、この三人の先生に故竹森節堂先生が加わっていたのです。 ...

相撲で言う「三役そろい踏み」からスタートです。 当時の三大ねぷた絵師である故石澤龍峡先生(1980年没・八島龍仙さんや三浦呑龍さんの先生です)と故阿部義男先生(1989年没)のねぷた絵です。 ...

昭和48・9年になると彩色についての振り返り(祭り終了後の検討)は、カラーフィルムが身近になってき始めたので助かりましたが、モノクロ写真しかない時は大変でした。 それでもカラー写真は貴重で、私の弘前高校卒業アルバムは見開きのみカラー写真ですが、後は全部モノクロでした。小学校・中学校の卒業アルバムは、もちろん白黒写真オンリーでした。 ...

今回は、私のねぷた絵人生で、ある意味転換年となった、1973年(昭和48年)のねぷたについて振り返ります。また、長谷川先生ご自身にとってもこの年前後が一つの転換期でなかったかと思われるほど、重要な年でした。 ...

この「不惜身命」という四字熟語は、あたかも貴乃花が使い始めた?かのように一人歩きしましたが、なんと昔の弘前ねぷたの袖絵に書かれて(描くではなく書くです。)いました。 弘前は流行に敏感なので、早くだしすぎたと言う感じです。 ...

さて、今回も昔のねぷたを追いかけますが、趣向を変えて昭和38・9年頃の和徳町の人魚ねぷたです。 ...

昔と今のねぷたの最大の違いは、今の紙に描いたねぷた絵はなかなか破れないということではないでしょうか。 ねぷたを7日間も引っ張って歩けば、奉書をつぎ継ぎはぎして描いた昔のねぷたは、どこかしらノリがはがれたり、予期せぬ「たるみ」がでたり等でよく破れたものです。 ...

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